月風魔伝その他、考察などの備忘録。
みなさんこんばんは、九曜です。
タイトルを見ての通り、本日もアーカイブで失礼します。
ちょっと私事で立て込んでまして…落ち着いたら考察やら、魔物絵巻も再開したいです。
落ち着くまでここを放っておくのも私の自由なんですが、アーカイブしたい作品もまだ20本以上ありますので(遠い目)タイミングを見て増やしていくつもりです。
近いうちに、カテゴリも追加・整理しようと思います。
本日のアーカイブ作品『哀しき叫び』は、魔装騎士となったクランのお話です。
真の勇者タンタがBOSSモンスターとして登場した時、Privatterに掲載したもので、先読みのできそうな展開ではありますが、楽しんでいただけると幸いです。
タイトルを見ての通り、本日もアーカイブで失礼します。
ちょっと私事で立て込んでまして…落ち着いたら考察やら、魔物絵巻も再開したいです。
落ち着くまでここを放っておくのも私の自由なんですが、アーカイブしたい作品もまだ20本以上ありますので(遠い目)タイミングを見て増やしていくつもりです。
近いうちに、カテゴリも追加・整理しようと思います。
本日のアーカイブ作品『哀しき叫び』は、魔装騎士となったクランのお話です。
真の勇者タンタがBOSSモンスターとして登場した時、Privatterに掲載したもので、先読みのできそうな展開ではありますが、楽しんでいただけると幸いです。
棘のついた重厚な盾が、付近の者々を突き刺し、傷つけ、あるいは叩き飛ばしてゆく。
それらは粗末な家屋も時に巻き込んで、鄙びた村を地獄絵図へと変貌させる。
重い手応えに一種の快楽さえ覚えながら、舌なめずる口元は、返り血で染まっている。
鉄の味を喉の奥にごくりと呑み込むと、魔装騎士クランは満足げに頬をつり上げた。
* * *
クランは、バビロア王国の騎士団の一員だった。
しかし、優しさの奥に見え隠れする強い羨望を利用され、魔皇ラフロイグの手に堕ちた。
悪しき感情を増幅するダークマターは、クランの重鎧の内側、胸元に食らいつくように張り付いて、心優しい重装騎士を魔装騎士へと変貌させた。
そして今、クランはラフロイグの配下として、辺境の小さな村を襲撃していた。
「オラオラオラァ!! そんなちゃっちい装備で、このオレに歯向かおうなんて、お笑い草なんだよォ!」
兵士でもない、一介の村人たちに、クランの一隊を勢いを止めるほどの力はない。
調子よく重盾を振るっていたその時、突然鈍い衝撃が伝わった。
振り下ろされた長い刀身に、クランが驚いて盾を引き戻すと、その向こうに一人の男の姿が見えた。
白い着物に赤の襟巻。頭のてっぺんで高く結わえた艶のある黒髪と、長い前髪の合間から覗く鋭い眼差し。
クランより背丈こそないが、すらりと立つその姿は、まるで白鷺のように美しく、凛としていた。
「貴様は……」
「我が名は剣聖ヒエン。魔の手の者か、捨て置くわけにはゆかぬ!」
ヒエンと名乗った男は、抜き放った刀を肩の上で構えると、そう見得を切った。
「このような村の、罪もない弱き者を殺戮するなど……何の因果としても、許されることではない!」
「はァ?」
ヒエンの発言に、クランはそんな御託は聞き飽きた、と言わんばかりの、間の抜けた返事をする。
細い体、軽装な身なり、折れそうな細い剣。
分厚い鎧や棘盾を味方とするクランは、そんな容姿の男を、さしたる脅威とも思わなかった。
「邪魔する奴は全部殺す。それのどこがおかしい? テメーだって、俺が邪魔だから殺す、そのための武器、だろ?」
挑発するような薄ら笑いも交えるが、ヒエンは眉ひとつ動かさない。
構えた刀はそのままに、黒地に緑の目でクランを睨みつけたまま、じりじりと距離を詰めてくる。
「俺の刀を、お前の得物と一緒にされては困る。無益な殺戮など俺も、俺の師も、友も喜ばない。だが、世を乱す者は……斬らねばならぬ時がある」
「そのほっそい剣でか? やってみやがれッ!」
クランが重盾を構えて突進するが、ヒエンはそれを跳躍してかわし、すかさず背後に回り込んだ。
音で勘付いたクランは、もう一方の盾をそちらに向ける。鈍い音、着地の音。
一撃防げたことを知り、すぐさま追い打ちをかけようと体を反転させるが、頭上を再び影が横切った。
「ちょこまかと……鬱陶しいヤツだ!」
跳ばれて逃げられたのを知るや、音を追いかけ着地した地点を見極める。
そちらに向けて突進する……おかしい。手ごたえがない。
刹那、後方から袈裟がけに振り下ろされた太刀筋が、クランの左肩のガーダーに深く傷を入れた。
「ぐッ!!」
「お前の戦い方は、あまりにも粗雑すぎる。透けて見えるようだ」
カチ、と剣を鞘に納める音。
見ればヒエンはクランのすぐ後方、盾の防いでいない方角に立ち、こちらを哀れむような目で見ていた。
確かに音がした、と足元を見る……そこには砂の詰まった皮袋が、無残な姿でうち捨てられていた。
ヒエンがこれを取り出して投げたのを、着地と勘違いし、自分は追いかけていたらしい。
妙な小細工を、と舌打ちして、ヒエンの方へ盾を構えなおす。
「いいから死ね!! 俺はテメェみたいな、いい子ぶった奴が大ッ嫌いなんだよ!!」
叫んだ瞬間、再び抜き放たれた太刀が、宙を舞った。
それは切っ先にほのかな燐光を纏って、横薙ぎの軌道を描くと、クランの片方の盾をバターのように切り裂いた。
「ひい……ッ!?」
ゴトン、という重い鉄の音。何事が起きたかを知って、クランはその場に立ち竦む。
予想していたよりも、この男は腕がたつらしい――魔装騎士と化してから初めて、身の震えを感じた。
冷や汗が玉のように、額を滑り落ちる。
クランはほとんど生存本能のまま、残った片方の盾を眼前に掲げ、防護の姿勢をとった。
「お前のような者に、嫌われることは厭わぬ。好かれることこそ願い下げだ」
振り上げたヒエンの一撃が、掲げた盾にヒビを入れる。
そのまま刀をくるりと返し、柄に全体重をかけて思い切り突くと、重盾はそこを基点に大きく割れ目を広げ、やがてばらばらに砕け落ちた。
両盾を失ったクランは、なす術もなくなり、その場に尻餅をついた。
ここで、死ぬ。終わる。抵抗もできないはずの村を襲いながら。なんと無様なことだろう。
迫る『死』の気配に、クランの顔から余裕の表情は消えていた。
噛みしめていた口は恐怖に怯え開き、小さく浮かんだ赤い瞳は、迫り来る脅威を注視することしかできない。
「あ……あ……」
「言ったはずだ、俺は無益な殺戮は好まぬ。だが……村の人々を虐殺したことは、許されるものでもない!」
堪えかねて目を瞑った時。
クランは、振り下ろされた刀を何かが受け止める、鈍い金属音を聴いた。
「何っ! 増援か……?!」
魔装騎士クランの隊は斬り込みの先鋒で、襲撃場所が寂れた村ということもあり、後続部隊が来るという話は一切されていなかった。
苦戦を聞きつけて、暇していた部隊でも駆けつけてきたのだろうか。
余計な借りができてしまうと、小さく舌打ちしようとしたが、耳に飛び込んできた声に、クランの思考が一瞬止まった。
「クラン、逃げて!」
舞い上がる砂塵のせいでよく姿は見えないが、こんな声の男が、ラフロイグの配下にいた記憶はない。
それにその声は、どこかで聞いたような、なぜだか懐かしいもので――
「は……あ……?」
「いいから逃げろ! ここは引き受けるから、逃げるんだ! キミは生きるんだ!!」
急かされて、よろめきながらもクランは立ち上がる。
盾をふたつとも失っていたのがここで幸いして、目指していたはずの方とは逆へ、いつもより身軽に走り出す。
それでも着込んだ鎧の重みで、走るたびにガシャ、ガシャ、と大きな音が立つ。
その音が、じゅうぶん遠ざかるまで……立ちはだかる戦士はヒエンの刀を、1ミリたりとも動かすまいと、左手に力を込めた。
「何奴ッ、名を――」
砂煙が晴れ、ようやく相手の姿をとらえたヒエンの言葉は、そこで途切れた。
あちこちが傷ついた白い兜、それに劣らずぼろぼろの赤いマント。白い鎧のあちこちにも深い傷が入り、どこを何日流離ってきたかもわからない。
しかしながら、ひどい身なりとはあまりにも不釣合の、整った精悍な顔立ちは、一人の男を想起させた。
「その白い鎧……まさか、あなたは?」
火の大陸、バビロア王国の騎士団にいた、白鎧の若き戦士が旅立った話は、遠く風の大陸にも聞こえていた。
戦士はいつしか真の勇者と呼ばれるようになり、各地で弱き者を助けては、戦い、流離っているという。
かつて故郷近くの森で、ヒエンはその後ろ姿だけを見たことがあった。
忘れもしない、傷だらけの白い鎧兜と、破れた赤いマント――
「今は黙って、かれを見逃してくれ。魔皇軍の者ではない、それだけは約束する」
まっすぐこちらを見る、瞳に秘めた憂いの緑。
ヒエンは何かを察したように、刀を納め、同じ色の眼差しを男へ向けた。
* * *
「ハァッ、ハァッ……」
傷と鎧で重たい体を引きずりながらも、クランは近隣の森に逃げ延びていた。
襲撃が失敗したのは嘆くべきことだが、あのまま死んでいた可能性も考えれば、生きて帰れただけで儲けものだ、とも思う。
豊かな緑の森は、魔界の侵略などとは縁遠い長閑な場所で、木漏れ日の差す枝葉の合間で、鳥が陽気にさえずっている。
そのうちに澄んだ湧水を見つけ、クランはそれを両手で掬って、喉を鳴らしながら飲んだ。
口に残る血の味が、すっと洗い流される心地をおぼえると、ようやく落ち着いて状況を確かめる余裕が生まれた。
「へ、へへ……オレにも運が回ってきたな……助かった……助け……」
そこで、クランの思考が止まる。
微かに見えた赤色の背中、聞き覚えのある声。
見ていないはずの、その男が振り返って、こちらに笑いかける姿が脳裏に浮かぶ。
白い鎧から少しこぼれる金の髪も、男にしては色白の肌も、黒目に緑の瞳を持つ戦士の眼も、ありありと思い出された。
「助け……そうだよ、僕は……タンタに、助け、られ……?」
クランの口から、まるで魔装騎士らしくない言葉が零れて落ちる。
ダークマターに取り込まれてなお、残り続けた小指の先ほどの良心が、過日ともに在った戦友との邂逅で、悪しき羨望を押しのけはじめていた。
戦士タンタ。バビロア王国を旅立った白い鎧の男は、クランの親友だった。
タンタは剣の扱いに長け、勇者として名を残すのだと言って、王国を旅立った。
一人残されたクランは、タンタが戻るまで王国を守ることを誓ったが、年月を重ねるごとに、その想いは曇っていった。
自分は、守るしか能がないから。
タンタと違って、王国のほかの騎士たちと違って、剣を振るのは苦手だから。
一緒に旅立つこともかなわず、勇者になるなんて夢物語で、王国でも重装騎士から上の位に取り立てられることはなかった。
それでも心優しき騎士は、愚痴のひとつも吐かず、ひとり思い悩む道を選んでいた。
タンタは悪くない。王国のみんなは悪くない。
悪いとしたら、それはきっと、弱い自分自身だ。
ずっと言い聞かせ続けてきたその心を、ダークマターはいとも簡単に壊し、クランは魔道に堕ちた。
自分は何も悪いことをしていない。
それなのに他の誰かばかり、自分は何も認められない。
心の奥底にあった、道理のようで理不尽な独りよがりは、目につくすべてを破壊する衝動へと変貌した。
自分は皆に「見捨てられた」のだという、悲しい思い込みをそこに内包して。
「タンタ……何で……? なぜだ! オレは、王国に、タンタに見捨てられたはずだ! なぜ今更!!」
しかし壊しながら、傷つけながら、かすかに残った重装騎士の心は、ずっと叫んでいた。
こんなことをしても、誰も喜びやしない、誰も何も認めてくれない。
それどころか、いろんな人を、王国を、親友のタンタを裏切ることになるじゃないか、と。
「タンタ……ヤツは……キミは……うああああああああっ!!!」
哀しい魔装騎士の慟哭は、誰に聞こえることもなく、森の奥にむなしく響いた。
それらは粗末な家屋も時に巻き込んで、鄙びた村を地獄絵図へと変貌させる。
重い手応えに一種の快楽さえ覚えながら、舌なめずる口元は、返り血で染まっている。
鉄の味を喉の奥にごくりと呑み込むと、魔装騎士クランは満足げに頬をつり上げた。
* * *
クランは、バビロア王国の騎士団の一員だった。
しかし、優しさの奥に見え隠れする強い羨望を利用され、魔皇ラフロイグの手に堕ちた。
悪しき感情を増幅するダークマターは、クランの重鎧の内側、胸元に食らいつくように張り付いて、心優しい重装騎士を魔装騎士へと変貌させた。
そして今、クランはラフロイグの配下として、辺境の小さな村を襲撃していた。
「オラオラオラァ!! そんなちゃっちい装備で、このオレに歯向かおうなんて、お笑い草なんだよォ!」
兵士でもない、一介の村人たちに、クランの一隊を勢いを止めるほどの力はない。
調子よく重盾を振るっていたその時、突然鈍い衝撃が伝わった。
振り下ろされた長い刀身に、クランが驚いて盾を引き戻すと、その向こうに一人の男の姿が見えた。
白い着物に赤の襟巻。頭のてっぺんで高く結わえた艶のある黒髪と、長い前髪の合間から覗く鋭い眼差し。
クランより背丈こそないが、すらりと立つその姿は、まるで白鷺のように美しく、凛としていた。
「貴様は……」
「我が名は剣聖ヒエン。魔の手の者か、捨て置くわけにはゆかぬ!」
ヒエンと名乗った男は、抜き放った刀を肩の上で構えると、そう見得を切った。
「このような村の、罪もない弱き者を殺戮するなど……何の因果としても、許されることではない!」
「はァ?」
ヒエンの発言に、クランはそんな御託は聞き飽きた、と言わんばかりの、間の抜けた返事をする。
細い体、軽装な身なり、折れそうな細い剣。
分厚い鎧や棘盾を味方とするクランは、そんな容姿の男を、さしたる脅威とも思わなかった。
「邪魔する奴は全部殺す。それのどこがおかしい? テメーだって、俺が邪魔だから殺す、そのための武器、だろ?」
挑発するような薄ら笑いも交えるが、ヒエンは眉ひとつ動かさない。
構えた刀はそのままに、黒地に緑の目でクランを睨みつけたまま、じりじりと距離を詰めてくる。
「俺の刀を、お前の得物と一緒にされては困る。無益な殺戮など俺も、俺の師も、友も喜ばない。だが、世を乱す者は……斬らねばならぬ時がある」
「そのほっそい剣でか? やってみやがれッ!」
クランが重盾を構えて突進するが、ヒエンはそれを跳躍してかわし、すかさず背後に回り込んだ。
音で勘付いたクランは、もう一方の盾をそちらに向ける。鈍い音、着地の音。
一撃防げたことを知り、すぐさま追い打ちをかけようと体を反転させるが、頭上を再び影が横切った。
「ちょこまかと……鬱陶しいヤツだ!」
跳ばれて逃げられたのを知るや、音を追いかけ着地した地点を見極める。
そちらに向けて突進する……おかしい。手ごたえがない。
刹那、後方から袈裟がけに振り下ろされた太刀筋が、クランの左肩のガーダーに深く傷を入れた。
「ぐッ!!」
「お前の戦い方は、あまりにも粗雑すぎる。透けて見えるようだ」
カチ、と剣を鞘に納める音。
見ればヒエンはクランのすぐ後方、盾の防いでいない方角に立ち、こちらを哀れむような目で見ていた。
確かに音がした、と足元を見る……そこには砂の詰まった皮袋が、無残な姿でうち捨てられていた。
ヒエンがこれを取り出して投げたのを、着地と勘違いし、自分は追いかけていたらしい。
妙な小細工を、と舌打ちして、ヒエンの方へ盾を構えなおす。
「いいから死ね!! 俺はテメェみたいな、いい子ぶった奴が大ッ嫌いなんだよ!!」
叫んだ瞬間、再び抜き放たれた太刀が、宙を舞った。
それは切っ先にほのかな燐光を纏って、横薙ぎの軌道を描くと、クランの片方の盾をバターのように切り裂いた。
「ひい……ッ!?」
ゴトン、という重い鉄の音。何事が起きたかを知って、クランはその場に立ち竦む。
予想していたよりも、この男は腕がたつらしい――魔装騎士と化してから初めて、身の震えを感じた。
冷や汗が玉のように、額を滑り落ちる。
クランはほとんど生存本能のまま、残った片方の盾を眼前に掲げ、防護の姿勢をとった。
「お前のような者に、嫌われることは厭わぬ。好かれることこそ願い下げだ」
振り上げたヒエンの一撃が、掲げた盾にヒビを入れる。
そのまま刀をくるりと返し、柄に全体重をかけて思い切り突くと、重盾はそこを基点に大きく割れ目を広げ、やがてばらばらに砕け落ちた。
両盾を失ったクランは、なす術もなくなり、その場に尻餅をついた。
ここで、死ぬ。終わる。抵抗もできないはずの村を襲いながら。なんと無様なことだろう。
迫る『死』の気配に、クランの顔から余裕の表情は消えていた。
噛みしめていた口は恐怖に怯え開き、小さく浮かんだ赤い瞳は、迫り来る脅威を注視することしかできない。
「あ……あ……」
「言ったはずだ、俺は無益な殺戮は好まぬ。だが……村の人々を虐殺したことは、許されるものでもない!」
堪えかねて目を瞑った時。
クランは、振り下ろされた刀を何かが受け止める、鈍い金属音を聴いた。
「何っ! 増援か……?!」
魔装騎士クランの隊は斬り込みの先鋒で、襲撃場所が寂れた村ということもあり、後続部隊が来るという話は一切されていなかった。
苦戦を聞きつけて、暇していた部隊でも駆けつけてきたのだろうか。
余計な借りができてしまうと、小さく舌打ちしようとしたが、耳に飛び込んできた声に、クランの思考が一瞬止まった。
「クラン、逃げて!」
舞い上がる砂塵のせいでよく姿は見えないが、こんな声の男が、ラフロイグの配下にいた記憶はない。
それにその声は、どこかで聞いたような、なぜだか懐かしいもので――
「は……あ……?」
「いいから逃げろ! ここは引き受けるから、逃げるんだ! キミは生きるんだ!!」
急かされて、よろめきながらもクランは立ち上がる。
盾をふたつとも失っていたのがここで幸いして、目指していたはずの方とは逆へ、いつもより身軽に走り出す。
それでも着込んだ鎧の重みで、走るたびにガシャ、ガシャ、と大きな音が立つ。
その音が、じゅうぶん遠ざかるまで……立ちはだかる戦士はヒエンの刀を、1ミリたりとも動かすまいと、左手に力を込めた。
「何奴ッ、名を――」
砂煙が晴れ、ようやく相手の姿をとらえたヒエンの言葉は、そこで途切れた。
あちこちが傷ついた白い兜、それに劣らずぼろぼろの赤いマント。白い鎧のあちこちにも深い傷が入り、どこを何日流離ってきたかもわからない。
しかしながら、ひどい身なりとはあまりにも不釣合の、整った精悍な顔立ちは、一人の男を想起させた。
「その白い鎧……まさか、あなたは?」
火の大陸、バビロア王国の騎士団にいた、白鎧の若き戦士が旅立った話は、遠く風の大陸にも聞こえていた。
戦士はいつしか真の勇者と呼ばれるようになり、各地で弱き者を助けては、戦い、流離っているという。
かつて故郷近くの森で、ヒエンはその後ろ姿だけを見たことがあった。
忘れもしない、傷だらけの白い鎧兜と、破れた赤いマント――
「今は黙って、かれを見逃してくれ。魔皇軍の者ではない、それだけは約束する」
まっすぐこちらを見る、瞳に秘めた憂いの緑。
ヒエンは何かを察したように、刀を納め、同じ色の眼差しを男へ向けた。
* * *
「ハァッ、ハァッ……」
傷と鎧で重たい体を引きずりながらも、クランは近隣の森に逃げ延びていた。
襲撃が失敗したのは嘆くべきことだが、あのまま死んでいた可能性も考えれば、生きて帰れただけで儲けものだ、とも思う。
豊かな緑の森は、魔界の侵略などとは縁遠い長閑な場所で、木漏れ日の差す枝葉の合間で、鳥が陽気にさえずっている。
そのうちに澄んだ湧水を見つけ、クランはそれを両手で掬って、喉を鳴らしながら飲んだ。
口に残る血の味が、すっと洗い流される心地をおぼえると、ようやく落ち着いて状況を確かめる余裕が生まれた。
「へ、へへ……オレにも運が回ってきたな……助かった……助け……」
そこで、クランの思考が止まる。
微かに見えた赤色の背中、聞き覚えのある声。
見ていないはずの、その男が振り返って、こちらに笑いかける姿が脳裏に浮かぶ。
白い鎧から少しこぼれる金の髪も、男にしては色白の肌も、黒目に緑の瞳を持つ戦士の眼も、ありありと思い出された。
「助け……そうだよ、僕は……タンタに、助け、られ……?」
クランの口から、まるで魔装騎士らしくない言葉が零れて落ちる。
ダークマターに取り込まれてなお、残り続けた小指の先ほどの良心が、過日ともに在った戦友との邂逅で、悪しき羨望を押しのけはじめていた。
戦士タンタ。バビロア王国を旅立った白い鎧の男は、クランの親友だった。
タンタは剣の扱いに長け、勇者として名を残すのだと言って、王国を旅立った。
一人残されたクランは、タンタが戻るまで王国を守ることを誓ったが、年月を重ねるごとに、その想いは曇っていった。
自分は、守るしか能がないから。
タンタと違って、王国のほかの騎士たちと違って、剣を振るのは苦手だから。
一緒に旅立つこともかなわず、勇者になるなんて夢物語で、王国でも重装騎士から上の位に取り立てられることはなかった。
それでも心優しき騎士は、愚痴のひとつも吐かず、ひとり思い悩む道を選んでいた。
タンタは悪くない。王国のみんなは悪くない。
悪いとしたら、それはきっと、弱い自分自身だ。
ずっと言い聞かせ続けてきたその心を、ダークマターはいとも簡単に壊し、クランは魔道に堕ちた。
自分は何も悪いことをしていない。
それなのに他の誰かばかり、自分は何も認められない。
心の奥底にあった、道理のようで理不尽な独りよがりは、目につくすべてを破壊する衝動へと変貌した。
自分は皆に「見捨てられた」のだという、悲しい思い込みをそこに内包して。
「タンタ……何で……? なぜだ! オレは、王国に、タンタに見捨てられたはずだ! なぜ今更!!」
しかし壊しながら、傷つけながら、かすかに残った重装騎士の心は、ずっと叫んでいた。
こんなことをしても、誰も喜びやしない、誰も何も認めてくれない。
それどころか、いろんな人を、王国を、親友のタンタを裏切ることになるじゃないか、と。
「タンタ……ヤツは……キミは……うああああああああっ!!!」
哀しい魔装騎士の慟哭は、誰に聞こえることもなく、森の奥にむなしく響いた。
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