月風魔伝その他、考察などの備忘録。
皆さんこんばんは。
雨にも負け風にも負け、夏の暑さにも絶賛敗北中の九曜です。
そういう人になりたいわけじゃないのに。
2連続ですみませんが、今日も「怪談っぽいオレカの創作話」を引っ張り出してきたので、それを載せようと思います。
実はまだアーカイブの「怖い話」が4本ぐらいあり、ぜんぶご紹介したいのですが、さすがに毎週毎週これでは見る側も楽しくないと思いますので、来週は別の話題をと考えています。
べ、別に、自室が地獄のように暑くて、資料も何も引っ張り出せなかったとかいうわけでは…。
今日のお話「惑(まどい)」は、風隠の族長オロシの話です。
怪異譚としてはさほど怖いものではなく、わかる人は「元ネタ」が何かまでわかるかと思います。
雨にも負け風にも負け、夏の暑さにも絶賛敗北中の九曜です。
そういう人になりたいわけじゃないのに。
2連続ですみませんが、今日も「怪談っぽいオレカの創作話」を引っ張り出してきたので、それを載せようと思います。
実はまだアーカイブの「怖い話」が4本ぐらいあり、ぜんぶご紹介したいのですが、さすがに毎週毎週これでは見る側も楽しくないと思いますので、来週は別の話題をと考えています。
べ、別に、自室が地獄のように暑くて、資料も何も引っ張り出せなかったとかいうわけでは…。
今日のお話「惑(まどい)」は、風隠の族長オロシの話です。
怪異譚としてはさほど怖いものではなく、わかる人は「元ネタ」が何かまでわかるかと思います。
風隠の森の夜は暗い。
その晩、森の族長オロシは、月に一度の見回りのため、集落間を結ぶ街道を歩いていた。
高下駄が土の地面を踏み、時折小石の当たるカツッ、という音が響く。
葉を揺らす風の音、晩夏に盛る虫の声が、そこに入り混じる。
街道とは言え、必要最低限の往来があるぐらいで、獣道ではないといった程度の整備しかされていない。
時折「風隠の里より東 ○里」「ここより○里 北の集落」という、距離の目安が書かれた石碑が傍らに立ててあり、それさえなければ「森の中の小道」と言っても差し支えはなかった。
今宵の月は小望月で、明日には晴れの満月が見られるだろう。
乾いた葉擦れの音や、この季節にしては湿気の少ない空気が、オロシにそう告げていた。
* * *
「……おかしい」
オロシの口からぽつりと、そんな言葉が出た。
かれこれ、小一時間は歩き通したはずだが、景色が変わった気がしない。そういえば、道のりを示す石碑を、しばらく見ていない気がする。
両脇に聳える深い森、先ほどまでしていた虫の音もなくなっていた。
空の月だけが、先刻よりも少し高い位置で、こちらを静かに見下ろしている。
この私が、もののけにでも化かされているのだろうか……などと考えていると、ますます奇妙な光景に出くわした。
街道の先、両脇の木の間に吊られた、網のようなもの。
暗がりゆえはっきりした色は見えないが、月光の照り返しからおそらく、濃い緑色であると判断する。
網の目はとても細かく、小さな虫なども入れないほどだ。
さすがに一瞬、驚いて立ち止まったが、引き返してどうなる気もしない。
恐る恐るそれに近づき、指先で軽くつまんでみる。意外にも、民芸品の網のようなごく普通の手触りだ。
オロシは安堵して、一笑に付した。
「フン、誰ぞの悪戯か。確かにこんな場所に、いきなりかようなものがあっては、驚きもする」
木に結び付けてあるそれを解いてしまうこともできたが、悪戯の犯人を探すためには、証拠として残しておくべきだろう。
吊ってあるだけなのだから、捲って下をくぐり、先へ進めばよい。
オロシは高下駄を一度脱ぎ、非常用の足袋へと履き替えて、網を捲り上げた。
どうやら、四隅を木の枝などに結んで空間を作っているらしく、中へ入ると暗い緑の網目に囲まれた。
天井は少しばかりたわんでおり、さながら建て方の違う天幕といったところだ。
向こう側の網の先に行けば、出られるのだろうと、歩みを進め網を捲る。
「何だと?」
くぐりぬけた先は元の街道ではなく、また網の中であった。
そういえば最初、網のかかる正面しか見えなかったから、もし奥へふたつ続きになっていても、そこは死角となる。
まったく、ふたつも続けてこんなものを、誰かは知らんが性質の悪い……そう毒を吐きながら、さらに先の網を捲って進む。
その時になってようやく、異変が起きていたことに、オロシは気づいた。
「馬鹿な!」
また、先の空間。木々も街道も月も見えない、網の中。
恐る恐る、さらに奥の網を捲り上げる……その先もやはり、緑色の暗い空間だ。
夢かと手の甲を千切れば鈍く痛む。目の前の怪奇は本物らしいと知って、悲鳴をあげそうになる。
ただ、まだ道は残されていた。まだこの網に囚われてから幾何もしていない。
元来た道を引き返せば、数枚捲った所で外の空気を吸えるだろう。そう思い、オロシは踵を返した。
後ろの網を、数えながら捲り、引き返す。
一枚二枚と口ずさみ、しかしその声は段々、震えたものへと変わってゆく。
「……これで、十枚……いったい、どういうことだ……?」
網に入ってから、十枚も網を捲って進んだ覚えはない。
自分はここで、方向感覚すら失ってしまったのだろうか、と恐怖する。
幸い、周囲に物の怪の気配などは感じないが、いつ何が起きても最早不思議ではない。
とにかく、ここを出なければいけない。一旦、網を捲るのはやめにして、オロシはその場に胡坐を掻いて座りこんだ。
下は土の地面、白の衣に土がついてしまうだろうが、この怪異に比べたら些細なことだ。
白かった足袋の裏は、土で汚れてすっかり黒くなっていた。
* * *
オロシは森を守るため、父ナナワライを師として、大風を呼ぶ妖術を習っている。
また、扇に花の力を秘めた風を乗せ、相手の正気を失わせたり、意のままに操ったりすることは、できる。
しかしいずれも、狙う相手あっての技能であり、この状況を打開できそうなものではない。
魔除けの術でも習っていれば、とひどく後悔した。
狼の遠吠えも、虫の声すら聞こえない。ひたすらしんとした無音に、心臓の鼓動だけが大きく響く。
網の中は湿気た空気であるにも関わらず、噴き出す汗は冷たいもので、背筋が凍りつくようだ。
まるで夜の世界に、一人取り残されてしまったような――ぶるっと身震いし、オロシは緑の網目を見つめる。
何の業、報いかと考えた時、一人の男の顔が浮かんだ。
族長の座を奪うため、この森から追放した、ただ一人の弟ハヤテ。
優しく自然を愛する男だったから、この怪奇自体は決してハヤテの仕業ではないのだろうが、自分が夜の森に呑まれる理由としては、充分に思えた。
力ずくで奪った地位だ、森は恐らくハヤテを選んでいたのだ、それを、私が。
こんなことを考え始めると、いつもなら側近が察して声を掛けてくれたりもするのだが、今は異空間にただ一人放り出されている。
懺悔すればそこで終いだ。森はハヤテを迎え、自分こそが罪を背負って追放されるだろう。そうなるわけにはゆかない。
しかし、いつまでここに縋り付けるのか、森に起こるさまざまの動乱に長として立ち向かえるのか、その未来はぼんやりとしか映らない。
さながら、磨くのを忘れた鏡の如く、滲むようにしか見えない未来に時折、弟の影がちらつく。
それが時折ひどく腹立たしくなり、悲しくなり、どうしようもない思いを押し殺しながら「風隠の族長オロシ」を演じ抜いているわけで。
白い着物の袖に、ぽたり、と雫が落ちた。
滲んで形作られた灰色の円に、網を通して降ってきた雨だろうか、と考える。
相当細かい網目であるが、雨ぐらいは通してしまうのかもしれない。
上の方を見上げると、網の目越しにぼんやり、天頂にのぼった月の白い光が見える。
その時だった。頬を何かが滑ってゆく感覚に、オロシは驚いた。
「私の……涙……?」
面を下げる。顎からぽたぽたと垂れ落ちる水滴が、灰色の染みを増やす。
それが涙だと理解するや、後から後から湧いて溢れ出し、ついには袖で眼をぐいと乱暴に拭ったが、それでも涙は止まらなかった。
こんなに泣くのは、何時ぶりだろうか。
* * *
忘れもしない、父上の何度目かの誕生日。
これを折に、風隠の森の新たな族長を決めるのではないか、という話もあった。
私には絶対の、自分が後継者になるという自信があった。
父の口から出たのは、弟ハヤテの名であった。
ハヤテは戸惑いも憂いも、喜びすらせずに、父の言葉を受け粛々とお辞儀をした。
それがなおさら、私の心を、自信を、プライドを踏みにじった。
父上は私には、ハヤテのためによき兄でいてほしい、と告げた。
それ以上平生を装って、父上やハヤテを見ることができず、宴の始まりとともに、私は静かに席を立った。
高下駄をつっ掛け、あてもなく私は歩いた。
父上もハヤテもいない、どこか遠い所へ、と、ろくに周りも見ず歩き出した。
昼下がりの気怠い空気も手伝って、どこをどう歩いたのか、最早記憶にもない。
そのうちに、ぽつりぽつりと雨が降り出した。
好天の下の宴会のはずが、今頃は慌ただしく天幕が建てられていることだろう。
それ見たことか、と口では毒づいていたが、頬には涙が伝っていた。
立ち止まり、懐に入れていた露草の花束を取り出す。
後継者の名が出た時に、あるいは宴会が落ち着いた頃にと思ったが、とうとう父上には渡せなかった。
悔しさや怒りや種々の感情が渦巻いて、やがてひとつの虚しさに行きついた私は、ただ片手に露草の束をぶら提げ、その場に立ち尽くした。
強さを増した雨が、両目から流れる涙を覆い隠すように、身を冷たく濡らした。
* * *
ようやく涙も枯れたが、周囲の景色に変化はない。
しかしオロシにはふと、思いついたことがあった。
「どうせ出られぬなら、どこまで続くか、数えてやろうではないか」
先ほどは十枚程度で諦めてしまったが、いったい全部で何枚あるのか、無性に気になりはじめたのだ。
立ち上がって着物の土を払い、もう一度進み始める。
一枚、と言いながら捲る。その先は緑の空間だが、もうオロシは驚きも戸惑いもしなかった。
数えながらひたすら前へ前へと進むと、三十六枚を数えたところで、急に視界が開けた。
虫の声が、葉擦れの音が戻ってくる。街道の脇には「風隠の里より北 一里」という石碑。
頭上には雲ひとつなく晴れた宵の空と、傾きかけた月。
オロシは驚いて、慌てて後ろを振り返ったが、あの緑の網は跡形もなく、煙のように消えていた。
寝惚けて夢でも見たかと思ったが、土のついた着物の裾と懐にあった高下駄が、現実であることを静かに告げていた。
その晩、森の族長オロシは、月に一度の見回りのため、集落間を結ぶ街道を歩いていた。
高下駄が土の地面を踏み、時折小石の当たるカツッ、という音が響く。
葉を揺らす風の音、晩夏に盛る虫の声が、そこに入り混じる。
街道とは言え、必要最低限の往来があるぐらいで、獣道ではないといった程度の整備しかされていない。
時折「風隠の里より東 ○里」「ここより○里 北の集落」という、距離の目安が書かれた石碑が傍らに立ててあり、それさえなければ「森の中の小道」と言っても差し支えはなかった。
今宵の月は小望月で、明日には晴れの満月が見られるだろう。
乾いた葉擦れの音や、この季節にしては湿気の少ない空気が、オロシにそう告げていた。
* * *
「……おかしい」
オロシの口からぽつりと、そんな言葉が出た。
かれこれ、小一時間は歩き通したはずだが、景色が変わった気がしない。そういえば、道のりを示す石碑を、しばらく見ていない気がする。
両脇に聳える深い森、先ほどまでしていた虫の音もなくなっていた。
空の月だけが、先刻よりも少し高い位置で、こちらを静かに見下ろしている。
この私が、もののけにでも化かされているのだろうか……などと考えていると、ますます奇妙な光景に出くわした。
街道の先、両脇の木の間に吊られた、網のようなもの。
暗がりゆえはっきりした色は見えないが、月光の照り返しからおそらく、濃い緑色であると判断する。
網の目はとても細かく、小さな虫なども入れないほどだ。
さすがに一瞬、驚いて立ち止まったが、引き返してどうなる気もしない。
恐る恐るそれに近づき、指先で軽くつまんでみる。意外にも、民芸品の網のようなごく普通の手触りだ。
オロシは安堵して、一笑に付した。
「フン、誰ぞの悪戯か。確かにこんな場所に、いきなりかようなものがあっては、驚きもする」
木に結び付けてあるそれを解いてしまうこともできたが、悪戯の犯人を探すためには、証拠として残しておくべきだろう。
吊ってあるだけなのだから、捲って下をくぐり、先へ進めばよい。
オロシは高下駄を一度脱ぎ、非常用の足袋へと履き替えて、網を捲り上げた。
どうやら、四隅を木の枝などに結んで空間を作っているらしく、中へ入ると暗い緑の網目に囲まれた。
天井は少しばかりたわんでおり、さながら建て方の違う天幕といったところだ。
向こう側の網の先に行けば、出られるのだろうと、歩みを進め網を捲る。
「何だと?」
くぐりぬけた先は元の街道ではなく、また網の中であった。
そういえば最初、網のかかる正面しか見えなかったから、もし奥へふたつ続きになっていても、そこは死角となる。
まったく、ふたつも続けてこんなものを、誰かは知らんが性質の悪い……そう毒を吐きながら、さらに先の網を捲って進む。
その時になってようやく、異変が起きていたことに、オロシは気づいた。
「馬鹿な!」
また、先の空間。木々も街道も月も見えない、網の中。
恐る恐る、さらに奥の網を捲り上げる……その先もやはり、緑色の暗い空間だ。
夢かと手の甲を千切れば鈍く痛む。目の前の怪奇は本物らしいと知って、悲鳴をあげそうになる。
ただ、まだ道は残されていた。まだこの網に囚われてから幾何もしていない。
元来た道を引き返せば、数枚捲った所で外の空気を吸えるだろう。そう思い、オロシは踵を返した。
後ろの網を、数えながら捲り、引き返す。
一枚二枚と口ずさみ、しかしその声は段々、震えたものへと変わってゆく。
「……これで、十枚……いったい、どういうことだ……?」
網に入ってから、十枚も網を捲って進んだ覚えはない。
自分はここで、方向感覚すら失ってしまったのだろうか、と恐怖する。
幸い、周囲に物の怪の気配などは感じないが、いつ何が起きても最早不思議ではない。
とにかく、ここを出なければいけない。一旦、網を捲るのはやめにして、オロシはその場に胡坐を掻いて座りこんだ。
下は土の地面、白の衣に土がついてしまうだろうが、この怪異に比べたら些細なことだ。
白かった足袋の裏は、土で汚れてすっかり黒くなっていた。
* * *
オロシは森を守るため、父ナナワライを師として、大風を呼ぶ妖術を習っている。
また、扇に花の力を秘めた風を乗せ、相手の正気を失わせたり、意のままに操ったりすることは、できる。
しかしいずれも、狙う相手あっての技能であり、この状況を打開できそうなものではない。
魔除けの術でも習っていれば、とひどく後悔した。
狼の遠吠えも、虫の声すら聞こえない。ひたすらしんとした無音に、心臓の鼓動だけが大きく響く。
網の中は湿気た空気であるにも関わらず、噴き出す汗は冷たいもので、背筋が凍りつくようだ。
まるで夜の世界に、一人取り残されてしまったような――ぶるっと身震いし、オロシは緑の網目を見つめる。
何の業、報いかと考えた時、一人の男の顔が浮かんだ。
族長の座を奪うため、この森から追放した、ただ一人の弟ハヤテ。
優しく自然を愛する男だったから、この怪奇自体は決してハヤテの仕業ではないのだろうが、自分が夜の森に呑まれる理由としては、充分に思えた。
力ずくで奪った地位だ、森は恐らくハヤテを選んでいたのだ、それを、私が。
こんなことを考え始めると、いつもなら側近が察して声を掛けてくれたりもするのだが、今は異空間にただ一人放り出されている。
懺悔すればそこで終いだ。森はハヤテを迎え、自分こそが罪を背負って追放されるだろう。そうなるわけにはゆかない。
しかし、いつまでここに縋り付けるのか、森に起こるさまざまの動乱に長として立ち向かえるのか、その未来はぼんやりとしか映らない。
さながら、磨くのを忘れた鏡の如く、滲むようにしか見えない未来に時折、弟の影がちらつく。
それが時折ひどく腹立たしくなり、悲しくなり、どうしようもない思いを押し殺しながら「風隠の族長オロシ」を演じ抜いているわけで。
白い着物の袖に、ぽたり、と雫が落ちた。
滲んで形作られた灰色の円に、網を通して降ってきた雨だろうか、と考える。
相当細かい網目であるが、雨ぐらいは通してしまうのかもしれない。
上の方を見上げると、網の目越しにぼんやり、天頂にのぼった月の白い光が見える。
その時だった。頬を何かが滑ってゆく感覚に、オロシは驚いた。
「私の……涙……?」
面を下げる。顎からぽたぽたと垂れ落ちる水滴が、灰色の染みを増やす。
それが涙だと理解するや、後から後から湧いて溢れ出し、ついには袖で眼をぐいと乱暴に拭ったが、それでも涙は止まらなかった。
こんなに泣くのは、何時ぶりだろうか。
* * *
忘れもしない、父上の何度目かの誕生日。
これを折に、風隠の森の新たな族長を決めるのではないか、という話もあった。
私には絶対の、自分が後継者になるという自信があった。
父の口から出たのは、弟ハヤテの名であった。
ハヤテは戸惑いも憂いも、喜びすらせずに、父の言葉を受け粛々とお辞儀をした。
それがなおさら、私の心を、自信を、プライドを踏みにじった。
父上は私には、ハヤテのためによき兄でいてほしい、と告げた。
それ以上平生を装って、父上やハヤテを見ることができず、宴の始まりとともに、私は静かに席を立った。
高下駄をつっ掛け、あてもなく私は歩いた。
父上もハヤテもいない、どこか遠い所へ、と、ろくに周りも見ず歩き出した。
昼下がりの気怠い空気も手伝って、どこをどう歩いたのか、最早記憶にもない。
そのうちに、ぽつりぽつりと雨が降り出した。
好天の下の宴会のはずが、今頃は慌ただしく天幕が建てられていることだろう。
それ見たことか、と口では毒づいていたが、頬には涙が伝っていた。
立ち止まり、懐に入れていた露草の花束を取り出す。
後継者の名が出た時に、あるいは宴会が落ち着いた頃にと思ったが、とうとう父上には渡せなかった。
悔しさや怒りや種々の感情が渦巻いて、やがてひとつの虚しさに行きついた私は、ただ片手に露草の束をぶら提げ、その場に立ち尽くした。
強さを増した雨が、両目から流れる涙を覆い隠すように、身を冷たく濡らした。
* * *
ようやく涙も枯れたが、周囲の景色に変化はない。
しかしオロシにはふと、思いついたことがあった。
「どうせ出られぬなら、どこまで続くか、数えてやろうではないか」
先ほどは十枚程度で諦めてしまったが、いったい全部で何枚あるのか、無性に気になりはじめたのだ。
立ち上がって着物の土を払い、もう一度進み始める。
一枚、と言いながら捲る。その先は緑の空間だが、もうオロシは驚きも戸惑いもしなかった。
数えながらひたすら前へ前へと進むと、三十六枚を数えたところで、急に視界が開けた。
虫の声が、葉擦れの音が戻ってくる。街道の脇には「風隠の里より北 一里」という石碑。
頭上には雲ひとつなく晴れた宵の空と、傾きかけた月。
オロシは驚いて、慌てて後ろを振り返ったが、あの緑の網は跡形もなく、煙のように消えていた。
寝惚けて夢でも見たかと思ったが、土のついた着物の裾と懐にあった高下駄が、現実であることを静かに告げていた。
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