月ノ下、風ノ調 - オレカ二次創作『故ありて其処に居るもの』 忍者ブログ
月風魔伝その他、考察などの備忘録。
皆さまこんばんは、九曜です。

今の今まで今日が月曜であることをすっかり忘れており、現在時刻21時、超特急で考察が仕上がるはずもなくアーカイブであります。駆け足なので、いつもの後書きも抜きです。省エネ設計!
本日は『故ありて其処に居るもの』、覇将ネルガルと参謀エンリルを中心とした、メソタニアの内乱に関わる話です。




故ありて其処に居るもの


メソタニアを脅かしたクーデターの嵐は去り、王子マルドクは正気を取り戻した。
謀反を企てた2人について、マルドクの下した裁きは重かった。

覇将ネルガルは野心を抱き国を壊しつつも、有能な将であったこと、また当人の愚直さもあり、国に尽くすことを条件に赦された。
一方参謀エンリルは、ネルガルを唆した罪に加え、改心の余地もないとされ、斬首となった。

これは、その後日の話である。

*  *  *

空がオレンジに染まる頃。
まるで暗渠にでも落ち込んだような心地で、椅子に座ったままうなだれているネルガルは、ようやく顔だけを持ち上げる。
虚ろな緑の目が棚の上に置かれた、銀のベルトをとらえた。
ネルガルと揃いで色違いの、ベルトにあしらわれた紫色の宝珠は、黄昏の残光に鈍く照らされている。

――エンリル。

将軍の地位に就く少し前、どこからともなくふらりと現れた魔術師。
仕官してすぐネルガルの補佐となり、嫌味たらしく神経質な物言いから、最初は好かぬ奴だと思ったのも覚えている。
しかし頭が切れ、軍律や陣立てを作らせれば右に出るものはなく、ネルガルの率いる一隊はエンリルの功績で、メソタニア最強とも言える軍となった。
そのおかげもあって、前メソタニア王より栄えある将軍の地位を賜り、今がある。

そのエンリルがいなくなってから、もう何度目の夜を迎えるだろう?
自分にも少なからず非があり、それでも生き長らえたのは、他でもない王子マルドクの温情だ。
それに不満はない。命乞いをしたわけでもないのに、首の皮一枚繋がったのは幸運なぐらいだ。
にも関わらず、空虚な気持ちが体を蝕んで、普段どおりの生活を、どこか遠い世界の出来事にさせる。

紺色の幕が下りはじめた空を見やり、ネルガルは大きくため息をついた。
居れば居たで、何かと口うるさい男だったが、エンリルの居ない空間がこんなにも淋しいなどとは。
残された大量の史書。戸棚にしまわれたまま、持ち主を失った紫色のティー・カップ。
彼が確かに生きていた痕跡が、こびりついたままの喪失感をかき立てる。

「……将様」

誰かが自分を呼んだ気がして、部屋の入り口の方を見やるが誰もいない。
兵たちが各々の家や寮に戻る夕刻、王宮はしんと静まり返っており、側近の兵たちもとうに帰っていることを思い出す。
それまで、たった二人で使っていた政務部屋だ。エンリル亡き後、ここを訪れる者はネルガルただ一人であった。
気のせいだろうと、視線を再び宙に泳がす。

「覇将様」

今度は、はっきりと聞こえた……覚えのある声質と、懐かしいその響き。
あやつは死んだ、あり得ぬ、と心の中で否定しながら、ゆっくりと声のした方へ顔を向ける。
そこにぼうっと立つ白い塊は、生前と変わらぬローブ姿のまま、ただ色だけがすっかり抜けて、しかし過日と同じ薄笑いを浮かべていた。
不思議とそこに恐怖はなく、少しの懐かしさと、純粋な疑問が先立った。

「何故、ここに……お前は、死んだはずでは」
「えぇ、死にましたよ? ですから、こうして化けて出ているでしょう」

指さした先に視線を落とすと、ローブの裾は溶けるように闇に消えている。
それによくよく見れば、全身もうっすら透き通っているようで、エンリルの顔越しに向こう側の景色がわかった。
幽霊は足がなく、実体もないというから、目の前のエンリルは確かに死んでいるのだろう、と思う。

「死んだ者が、恨みのある者の所に化けて出るのが、そんなにおかしい事だとは思いませんがね」

恨みという単語が、ネルガルの心をちくりと突いた。
ああ、自分はエンリルに、恨まれているのか……エンリルが斬首になった原因を思えば、恨まれてもいた仕方ないと、考える。
もっとも、エンリルも小狡く立ち回ったわけであるから、処刑されることは当然と思う。
それに、あのまま自分がメソタニアを掌握した後の未来は、いつか閉ざされるものだったに違いない、とも。

それでもネルガルは、この男に見放されることが怖い、と自覚していた。
エンリルが裏切ったのは事実だ。それならそれで、いつまでもよき片腕で居てもらいたかったが、今となっては遅い話だ。
分かたれたふたつの道は、もう交差しなかろう、と諦めたはずなのに。
目の前の半透明な面を見れば見るほど、何とも表せぬ感情が、ネルガルの胸中にもやもやと広がった。

「覇将様」
「その肩書は、とうに捨てた」
「おっと、そうでしたね。今は……将軍様、でしたか」

エンリルの顔はまるで血の気がなく、ただでさえ白かった肌もますます白い。
しかし、何かを企むように笑う面持ちは、生前とまったく変わっていない。

「ネルガル、いるのか?」

続く言葉を聞こうとした時、部屋の入口にひょいと小さな顔が現れた。
決して大柄ではないが、筋肉のついた体躯と日焼けした肌。王族の証である金の髪をたっぷりとたくわえた頭のおかげで、小ぶりの精悍な顔はますます小さく見える。
大きく開いた眼に浮かぶ緑の瞳は、まだ少年であることを匂わせるが、彼こそが今現在、メソタニアのすべてを取り仕切る王子――

「ま、マルドク様!」
「!? エンリル……?」
「おや。わたくしの事が見えるのですね、マルドク様」

王子として、このところ覇気のないネルガルを気にかけていたのだろう。それは夕闇を照らす燭台を手に、心配そうな顔をして、ネルガルの部屋を訪ねてきたことからもわかる。
しかし、その部屋に影かたちの薄い「もう一人」がいることは、さすがに予想外だったようだ。

「何しに来た! 死んでまで、変なこと企んでるんじゃねえだろうな!?」

胸倉に掴みかかりたいのはやまやまだが、うっすらと透けているのを見るに、この世のものでないことも容易に想像がつく。
やり場のない左手で、マルドクは思わず握り拳を作った。

「そんなつもりは。成仏できず、さまよっているだけです」
「またネルガルに何か吹き込んだりしたら、タダじゃあおかないからな」
「もう死んだ身の私に、何ができるというのです? ……フフフ」

掴みどころなく答えをかわすエンリルと、その煮え切らない態度にムッとした顔をするマルドク。
言い合う間に挟まれたネルガルは、どちらの味方ともなれず、腕組みをして口をへの字に曲げ、その場を見守ることにした。
しかしながら……先までおぼえていたはずの喪失感は、ぴんと張った宵の空気に、すっかり霧消していた。

*  *  *

亡霊となったエンリルが城内に現れてから、三日が過ぎた。
どうやらエンリルの姿は、ネルガルとマルドク以外には見えていないらしい。
マルドクがエンリルの方を訝しげに睨んでいるのを見て、熱でも出ていないかと、姉ダムキナが額に手を当てたほどだ。
古参の老将であるエンキも、その存在に気付いていないようで、ネルガルがエンリルと何らかを喋っていると「休むのも大事ですぞ」と声を掛けられる。
主従関係にあったネルガル、そして処刑を自ら執行したマルドクはともに、エンリルと因縁が深いわけであるから、二人ともその状況には何となく合点がいった。

その日の昼過ぎ、傷ついた兵士が、怪我をおして王宮に駆け込んで来た。
千切れてボロボロになってこそいるが、メソタニア伝令兵のしるしである金のちいさな旗に、火急の用だと察した門番は、すぐさま彼を王座の間に通した。
近衛兵に肩を貸され息など切らしながら、兵士はマルドクの前で、口を開いた。

「て、敵襲です……! 旗印も何もない、どこともわからぬ軍勢が、正門、西門より城下に攻め込んできております!」

マルドクが思わず、王座から立ち上がる。
何者かわからないのが気になるが、命からがら逃げ延びてきた兵士の様子から見ても、並大抵の相手ではなさそうだ。

「ネルガル! お前は正門に向かってくれ!」
「はっ!」

旗印も紋章もわからない以上、魔王の軍という可能性もある。
その主力が押し寄せてくるであろう正門には、激戦を掻い潜ってきた将軍ネルガル……戦の経験はそれほど多くもないマルドクであるが、真っ当な判断だ。

「エンキは西門を頼む! 数は少ないかもしれないが、気をつけるんだ」
「お任せくだされ、マルドク様」
「マルドク、私も戦います。狭い西門なら、敵は一度に攻めてこないはず。エンキ将軍にお供いたします」

西門にエンキを差し向けようとすると、その場にいたダムキナが声をあげた。

「あ、姉上……しょうがないな! エンキ、姉上を頼む!」
「はっ! 王女様は命にかえても、お守りいたしまする」

姉のダムキナは、王女という立場もあり芯は強く、またマルドクのためには命も顧みない、弟思いの女性でもある。
言い出したらきかないことも、弟としては重々承知しているので、引き留めたところで無駄だろう。
幸い、向かわせるエンキは老齢ながらも、武芸に長けた勇将である。ここは飲み込むことにした。

使命を全うした伝令兵を労い、近衛兵にその手当てを指示すると、マルドクは腰に提げた剣の柄に、おもむろに手を掛けた。

「オレは……ネルガルと一緒に、正門に行く」

ネルガルの部隊は、特に屈強な兵を多く抱えている。だが、一度魔王に侵略されかけ、崩壊しかけたメソタニアの戦力は、以前と比べ格段に落ちていた。
出せる兵すら限られているこの状況で、王子とは言え、王宮で高見の見物というわけにはいかない。
それにマルドクも、エンリルの手引きとはいえ――狂気に呑まれ隣国を侵略した、メソタニアを瓦解させるきっかけを作った過去がある。
罪滅ぼしとでも言おうか、自ら剣をとって先陣を切り、戦うだけの理由は充分に持っていた。

「おっ、お待ちください! マルドク様に何かあっては……ここは、このネルガルにお任せを!」
「大丈夫だ、親衛隊も補給部隊も、みんな連れて行く」
「しかし、敵が何者かわからぬ以上、危険です!」
「そんなの分かってる! けど、正門にお前一人で、それこそ死なれでもしたら……!」

互いに折れることも知らず言い争っていると、その間にスッと割って入る影があった。

「わたくしをお忘れのようで?」
「エっ……エンリル……?」

それは他でもない、参謀……いや、今や亡霊となったエンリルだった。
自分のことが見えないエンキとダムキナが出て行くまで、口をはさむ機会を窺っていたのだろう。
エンリルは相変わらず透けた青白い顔で、それでもどこか余裕さえ見せながら、マルドク達の方を見ている。

「お前、ユーレイなんだろ? 戦えるのかよ?」
「フフ。魔法でしたら、今のわたくしにも容易いことです」

マルドクは思い出す。通常、魔法を使うために必要な魔導書や杖……それらの媒体が、エンリルには必要ないこと。
それほど強力な魔力と精神力を備えたエンリルだからこそ、前王が参謀として迎えたということ。
生前の罪は決して軽いものではないが、父の見る目が間違っていたとも思いたくない。
戦いとなれば、頭の切れるエンリルの采配や種々の魔法は、確かに目を見張るものがあった。

「そうか。けどな……また、寝返らないとも限らないよな」
「おや。今の私に、寝返る理由があるとでもおっしゃいますか?」
「……その言葉、信じていいのか?」
「さあ? フフ、信じるも信じないも、マルドク様次第です」

ただ、仮に戦えるとしても、その心の奥深くまで、マルドクには察することができなかった。
一度王国を裏切り、崩壊させた諸悪の根源として、処刑された男だ。万が一、攻め込んできた者たちと手を組まれたら、ひとたまりもない。

「……ネルガルは、どう思う。連れて行くべきだと思うか」
「なっ、なぜわたくしめに」
「お前は、エンリルを直接、配下に持ったことがあるからな。お前の意見も聞きたいんだ」

そう言われ、考えるのは不得手ながらも、ネルガルが思案をめぐらす。
配下ながら、裏切りを見破ることができなかった……知恵者のエンリルの裏など読めるわけがない、と思いつつ、それは何の言い訳にもならない。
もちろん、今のエンリルが裏切るかどうかなど、ネルガルには察しもつかない。
今、為すべきは何か? それを自らに問うた時、出せる答えは限られている気がした。

「今は迷う時間もありませぬ。正門へ行かれるのなら、マルドク様はどうか後ろにお控え下さい。……エンリル」
「はい」
「もう一度、ともに戦ってくれんか。お前の力を借りたい」

自分はただ、剣を振るしか能のない武人だ。そんなことは、ネルガル自身にも痛いほど分かっている。
だからこそ、知恵のある者を信じて、頼りにするしかない。
愚直に信じることで、閉ざされた道が開くこともあるだろう――過日のマルドクが、ネルガルを赦したように。

「いいでしょう。この国が滅んでしまえば、私も行き場がなくなります」

ああ、あなたはいつもそうだ……呆れた声で、しかしどこか満更でもない表情を見せながら、青白い唇が答えを告げた。

*  *  *

「鬱陶しいぞォッ!」

ネルガルの一撃が押し寄せる魔物を散らすが、それらはまたいずこからともなくやってきて、数の上で不利な戦いを強いられる。
加えて、寄せ集めの兵を端に加えた部隊では、魔物に怯えて逃げ出す者なども見えはじめ、戦いが長引くほど士気は落ちた。
やはり攻め込んできたのは魔王の軍勢らしき異形の群れで、内乱で疲弊したメソタニアをここぞとばかり、侵略しに来たらしかった。
唆されなければ、裏切らなければ……ネルガルがいくら後悔しても、無駄だというのはわかりきっている。今はただ、目の前の敵を一人でも多く叩き伏せるだけだ。
なるべく声を張り上げ、将軍ここにありと知らしめながら、軍を奮い立たせようと剣を振る。

「く……次から次へと……!」
「それだけ、あちらも必死なんだ……おっと、王宮の方に行かせてたまるかッ!」

ネルガルの軍勢が討ち漏らした敵を、マルドクが疾風の一撃で斬り払う。
数こそ少ないが、親衛隊を揃えているマルドクの一隊は、前線を突破してきた数少ない敵を掃討するだけなら、余裕さえ残していた。

「ここを前線に持ち堪えるぞ、ネルガル、エンリル!」
「御意!」
「はっ」

マルドクの声に勇気づけられ、ネルガルは周囲すべてを薙ぎ払う勢いで、大剣を振り回す。
その少し後方から、エンリルはウィンドの魔法で応戦し、残る魔物を吹き飛ばしてゆく。

魔物は血に飢えた獣の類というよりは、死者がもう一度息を吹き返したような、見るもおぞましいものが多い。
魔王が地獄の者たちも従えるほど強大になったのか、それともまったく異質な別の脅威であるのか、マルドクは判別つきかね始めていた。
それでも戦わなければ、そこには滅びが待つのみだ。
剣を握る左手に力を込め、一体一体確実に斬り捨て、始末してゆく。

「エンリル、顔色が……」
「悪いのは元々ですよ。亡霊なんですから」
「そ、そうであったな」

後方から飛んでくる風圧が、いつもより弱い気がして……ネルガルが心配するが、当のエンリルは呆れたような声で否定するばかりだ。
幽霊というものは、やはり生きている者よりも、魔力が多少落ちるのだろうか。
ネルガルがぼんやり考えていると、鼻先を風の渦が掠めていった。

「ひっ!?」
「将軍様! 敵中に棒立ちでは、ただの的になりますよ!」
「すっ、すまん! 恩に着る!」

目前まで迫っていた魔物を、エンリルが払ってくれたことに気づき、ネルガルは剣を構えなおす。
その時、場にひときわ大きな声が響き渡った。

「ここも煉獄の一部にしてやろうかァ!!」

その声は地面がびりびりと震えるほどの大きさだが、ふたつの声色が重なっているように聞こえ、どこか異様な雰囲気を纏っている。
魔物の群れが割れ、その中央に立つ大きな人影。
真っ赤なマントをはためかせ、右手に杖とも剣とも言い難い武器を構えて現れた者の顔を、マルドクは知らなかった。

この火の大陸に拠点を持つ魔王の名や特徴を、マルドクは国を統治する立場柄、ある程度把握している。
魔王ムウス、魔王リヴィエール、それに魔皇ラフロイグ……今、目の前に立つ者の姿は、そのどれとも違っていた。

「俺はアレス。煉獄皇、アレスだ!」
「煉獄皇……? そんな奴がどうしてここに?!」

煉獄。死者が行き着く場所のひとつで、燃え盛る炎に閉ざされた灼熱の異界。
そのような場所で皇と呼ばれるほどの者が、侵略してきたという事実に、マルドクは目を疑った。
アレスが勢いよく杖剣を振り下ろすと、割れた大地から高熱のマグマが噴き出し、メソタニアの兵士たちを一度に呑み込んでいった。
黒焦げになって倒れた一団を見ながら、マルドクがごくりと唾をのむ。

「ハッハッハ! 燃えろ、燃えろォ! 全部燃やし尽くしてやる!!」

戦士の素養を持つ反転目でありながら、青と紅に彩られた奇妙な瞳が、対面するマルドクの視線を射抜く。
燃え立つようなオレンジの髪から、緋色の重厚な鎧に身を包んだ巨体、翻る赤いマントまで……そのすべてが威圧感を持ち、こちらへ迫ってくる。
戦うか、逃げるかしなければ。しかし、どうやって?
混乱するマルドクと、歩み寄ってくるアレスの間に、緑のマントが翻った。

「させるか! ここから先は一歩たりとも――」

意気込んで立ちはだかったネルガルに、フンと鼻を鳴らしながら、アレスは右手の杖剣を大地に振り下ろす。

「覇煌剣ヴォルケイドォ!」
「ぐうっ!」

灼熱を帯びた一撃が、金の重鎧に大きなキズをつけた。
咄嗟に突き立てた大剣に食らいつき、倒れることは免れたが、吹き荒れる熱風に意識など持ってゆかれそうになる。
マントの一部が焼け焦げて、燻る匂いが鼻をついた。

「ネルガル! 無事か!」
「マルドク様、危険です! お退がりください!」

ネルガルがふらつきながらも何とか堪え、近寄ろうとするマルドクに釘を刺す。マルドクは唇を噛み悔しそうな顔をしながらも、足を止めた。
そこへ、エンリルが音もなくスッと横入りしてくる。

「一度、立て直しましょう」

緑の淡い光が湧き立つや、連れてきた補給兵が我先にとはたらきはじめた。
マルドクの号令ほどではないが、エンリルの補給命令は生前とほとんど変わらず、二人の体力を少しばかり取り戻させる。
アレスとまだ距離を保っているうちに、マルドクは次の一手を考えなければならなかった。
下手に飛び込めば、灼熱の炎の餌食になる。
素早さはこちらが上だろうが、いつまでも一方的に攻撃できるわけではない。
その時、前に立つネルガルがちらと顧み、口を開いた。

「マルドク様……このネルガルが斬り込み、盾となります。隙ができた所に、とどめの一撃を」
「無理だ! いくらお前でも、あんな攻撃をもう一度受けたら、死んじまう!」

風とともに生き、風に親しむメソタニアの民は、熱を帯びた攻撃に弱い。
鍛えられた丈夫な体を持つネルガルとは言え、その例外ではない。一撃目で大きく体力を削られていることに加え、次の当たりどころが悪ければ、命に関わる重症となりかねなかった。

「この命、マルドク様に拾われたようなもの。使うならば、ここをおいて他にはございませぬ」
「けど……!」
「お喋りは済んだかァ? 行くぞ! 覇煌剣――」

アレスが杖剣を高く振りかざした、その時だった。

「フォーメーション・ミストの発動を命じます!」

辺りに一陣の風が吹き、白い霧が立ち込める。
効果に限りはあるが、ありとあらゆる攻撃をかき消す魔法障壁は、他でもないエンリルが得意とするものだ。

「フォーメーション・ミスト!?」
「フフフ……残念ですがこれ以上は、わたくしの体が持ちそうにありません。攻撃が届かない間に、決着を」
「待て! まさか、エンリル……!」

体が持ちそうにない。その真意を確かめようと、ネルガルは言葉を投げかけた。

「元々、私は死んでいますから。見えなくなっても一緒ですよ」

想像通りであるという答えに、ネルガルは唇を結ぶ。
呟くように言う、いつもの含み笑いの表情も、どこか寂しげなものに見えた。

「時間がありません。マルドク様、ネルガル様!」

エンリルの姿が心なしか、薄れてきたような気がするのは、周囲を覆う霧のせいだと決めつけて……ネルガルはアレスの方へ向き直った。
震える左腕を制して、突き立てた緑の刀身を引き抜き、構える。

「覇煌剣、ヴォルケイドォ!!」

アレスは再び、杖剣を大地に付き立てたが、熱風はまたたく間にミストに包まれ、かき消された。
エンリルのこの技をよく知る二人は、攻撃に動じることなく、急いで体勢を立て直し始める。

「何だとォ!? 俺の剣が、熱が効かないだと……こんなはずは……!」
「これでどうだあッ!」
「ぐあァ!! くっ……このォ!」

マルドクの打ち下ろす必殺の一撃が、真っ赤な肩当てにヒビを入れ、アレスの体勢を崩した。
続けざまに放たれる、アレスの熱を帯びた強撃を、白い霧は次々に打ち消してゆく。

「ネルガル、今だ!」

かき消えたミストから姿を現したネルガルは、アレスが杖剣を構えるよりも早く、身の丈ほどもある大剣を頭上に振り上げていた。

「プロペラソード! うぉりゃああぁーッ!!」
「がは……ぁッ!」

片手で軽々と、円を描くように振り回された緑の刀身が、鎧の巨躯目がけて横殴りに叩き込まれる。
風を纏った刃は、鎧の一部を叩き壊し、火族である煉獄皇アレスに深手を負わせた。

「ふ、は、ハハハハハ!! 面白い……メソタニア王国……滅ぼすのは最後にしてやる……ここは、寒い……」

帰還の魔方陣に照らされたアレスの姿が、溶けるように消える。
そのうちに、再び攻めてくるのであろうが……今この危機を乗り切ったということを、マルドクはようやく実感することができた。

「か、勝った……勝ったぜっ! 皆、勝鬨を上げろーっ!!」

生き残りの部隊が、拳を振り上げ、意気揚々と叫ぶ。
次にアレスが攻めて来る時までには、メソタニアの復興も進み、兵も増えていることだろう。
戦の規模こそ小さかったが、この場で勝利をおさめることができたのは、復興への大きな一歩であった。

空を見れば、高かった太陽は赤い光を帯びはじめ、日暮れも迫ろうかという頃になっていた。
夜になる前に、戦場となった正門周りを、何とか落ち着けなければならない。
残る部隊に王宮への帰還命令や松明の調達令を出し、傷病者の手当てや戦死者の移送も始まったところで、マルドクはネルガルに駆け寄った。

「ネルガル、よくやった!」
「我らの勝利です、マルドク様。エンリ――」

その場のどこにも、あの小狡そうな透けた顔は、ない。
顔色を失うネルガルに、マルドクもまた、かける言葉を見失った。
夕陽だけがただ赤く、切なく、その場を染めあげてゆく。

「マルドク様! 敵は侵略を諦めて、退いてゆきましたぞ!」

西門の方角から、エンキがダムキナを連れて戻ってくる。
そこに立ち尽くしているだけの両名を見て、エンキもダムキナも首を傾げた。

「マルドク……それに、ネルガル? いったい、どうしたの?」
「何でもねえよ。なあエンキ。ちょっと無縁塚に行きたいんだ、案内してくれ」
「えっ? これはまた、急なことを……構いませぬが」

エンキにも、ダムキナにも、亡霊エンリルの姿は見えていなかった。
それを知っている二人は、細かいことを説明したとて、仕方ないということも理解している。

「ありがとう。ネルガル、来い」
「はっ」

手向ける花は持たないが、せめて礼の言葉だけでも――同じ思いを抱いたふたつの人影が、先導するエンキに続く。
オレンジの光に浸食された二つの背中は、それを見送るダムキナの目に、なぜだかとてもちいさく見えた。

*  *  *

「……」

あの激闘からまる一昼夜が過ぎ、ネルガルはまた「あの部屋」にいた。
すっかり夜も更けた暗い室内、テーブルに置かれた燭台が唯一の明かりだったが、短くなった蝋燭が溶け落ちそうなのにも気付かない。

城下の、王宮のどこを探しても、エンリルはとうとう見つからなかった。
恐らくはあの時、フォーメーション・ミストを発動するために、精神力を使い果たしてしまったのだろう。
幽霊というものがどうやってできているかなど知らないが、宿る肉体がない状態で精神力が尽きてしまえば、消えてしまうのだろうとネルガルは思った。
小さくなった炎を、長いため息が揺らす。

「将軍様。何をそんな塞ぎこんでおられるのです」
「何をとは、エンリルが――」

言いかけて、はっとする。今の声は!
慌てて振り向くと、白く透けた顔がすました面持ちで、大きな瞳をネルガルの方へ向けていた。

「エンリル!? お前、あの時消えてしまったのでは……!」
「私が程度も知らず、自分が消えてしまうほどの精神力を使うとでも? 雲散霧消するほど馬鹿ではありません」
「そっ、それならそうと早く言えばよいものを……!」
「精神を摩耗したせいで、目に見える形になるまで時間がかかったのですよ。それをあなた方は早とちりして……」

言い合っている最中に、ふっと辺りが暗くなり、驚く。
燭台の明かりが消えてしまったのだろうが、替えの蝋燭がどこにあるのかなど、ネルガルは覚えていなかった。
しかしむしろ、エンリルの仄白い姿は闇にますますはっきりと見え、これでは蝋燭などいらないなと苦笑する。

「これからどうするのだ」
「しばらくご厄介になりますよ。成仏できそうにありませんし」

エンリルはふうとため息をつき、やれやれ、というように肩を竦める仕草をした。
その言葉に、ネルガルはこの男が「成仏できない理由」をふと思い出し、改めて問いかける。

「まだ、われらのことを恨んでいるのか」
「恨んで? はて、そんな事言いましたかね」
「えっ? ならば、なぜこのように化けて出るのだ?」

エンリルの目が一瞬、戸惑うようにあさっての方へ逸れたが、ネルガルにそれを見抜く洞察力はない。
ハトが豆鉄砲でも食らったように、間の抜けた顔で問うてくるかつての上官に、エンリルはゆっくりと口を開く。

「……地縛霊みたいなものでしょうか。とにかく、まだ成仏できないようです」

言葉は選んだつもりだが、地縛霊、という表現も強ち間違ってはいないのだろうと、エンリルは一人で納得していた。
窓から見える殺風景な庭と城門、少し高くて書きもののしづらい古びた机、薄埃のたまったまま、手のつけられていない書斎。
そこに時折、政務のせの字もわからぬ男が、羽ペンなど投げ出して、渋い顔でふんぞり返って座っていたりする。
縛られているのだ。意識も思考もすべてが、他でもないこの場所に。

――張り合いがないのですよ。あなたの隣に居なければ。

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